さだまさし「広島の空」を語る、「夏 長崎から」重大発表!あり

さだまさし
長崎ガイドより

こんにちはHANAです。

2024年8月9日(金)は長崎・原爆の日でした。
テレビ朝日 【大下容子ワイド!スクランブル】で、原爆投下から79年迎え、さだまさしと考える長崎という内容の番組を見ました。

1945年8月9日、長崎に投下された原子爆弾は、約7万4千もの尊い命を奪いました。
さだまさしさんは、被爆された叔母さんの体験を歌にした「広島の空」で、その悲しみと怒りを歌い上げました。

「広島の空」へのさださんの思いなど、番組内で語った内容を紹介します。
最後に、さださんから驚きの発表もありましたのでそちらも紹介しますので最後までお付き合いください。




さだまさし「広島の空」というタイトルについて

【大下容子ワイド!スクランブル】番組内で改めて、さださんの平和に対する強い思いを感じました

さだまさし「広島の空」なぜ叔母の体験を歌にしようと思ったのか?

大下アナ

1993年に叔母の被爆体験を歌った「広島の空」を発表しましたが、なぜ歌にしようと思ったのですか?

さださん

当時は「怒りの広島」「祈りの長崎」という言葉があったんですよ。
広島は亡くなった人も多いですし、世界で初めての被爆地だから怒りの方が大きかった。ところが長崎の爆心地というのがクリスチャンが多く住んでいた土地だったので怒りよりも祈ろう、もうこんなことが起きませんように

さださんの叔母さんは17歳の若さで被爆し、50年生きましたが原爆症でお亡くなりになりました。

さださんが『夏 長崎から』のコンサートを始めた時、
「あなたが歌うのをやめるのか私が生きるのをやめるのか どっちが勝つか」と言いながら毎年楽しみにコンサート会場の稲佐山へあがってくれていました。
さださんは、そんな叔母さんの思いをどうしても伝えたかったそうです。

 

さだまさし、長崎のことなのに「広島の空」とタイトルをつけたのか?

大下アナ

叔母の長崎の体験だけどあえて「広島の空」というタイトルをつけたのか

さださん

長崎が❝最後の被爆地❞であってほしいと思うが広島が❝最初の被爆地❞ていうことは永遠に変わらない、だから「広島の空」は長崎っ子としては8月6日の広島の日の晩に広島の空に向かって歌うことが長崎っ子らしい祈りなのかなと僕は思ったんですよね。



さだまさし「広島の空」の歌詞に込められた思い

その日の朝が来ると僕はまずカーテンを開き
既に焼けつくような陽射しを 部屋に迎える
港を行き交う船と 手前を横切る路面電車
稲佐山の向こうの入道雲と 抜けるような青空

In August nine 1945 この町が燃え尽きたあの日
叔母は舞い降りる悪魔の姿を見ていた
気付いた時炎の海に独りさまよい乍ら
やはり振り返ったら稲佐の山が見えた

もううらんでいないと彼女は言った
武器だけを憎んでも仕方がないと
むしろ悪魔を産み出す自分の
心をうらむべきだから どうか
くり返さないで くり返さないで
広島の空に向かって唄おうと
決めたのは その時だった

今年のその日の朝も僕はまずカーテンを開き
コーヒーカップ片手に 晴れた空を見上げ乍ら
観光客に混じって 同じ傷口をみつめた
あの日のヒロシマの蒼い蒼い空を思い出していた

In August six 1945 あの町が燃え尽きたその日
彼は仲間たちと蝉を追いかけていた
ふいに裏山の向こうが 光ったかと思うと
すぐに生温かい風が 彼を追いかけてきた

蝉は鳴き続けていたと彼は言った
あんな日に蝉はまだ鳴き続けていたと
短い生命 惜しむように
惜しむように鳴き続けていたと どうか
くり返さないで くり返さないで
広島の空に向かって唄ってる
広島の空も 晴れているだろうか

くり返さないで くり返さないで
広島の空に向かって唄ってる
広島の空も 晴れているだろうか

引用:さだまさし楽曲「広島の空」

稲佐山、路面電車、入道雲など、長崎の風景が細やかに描かれることで平和な朝の風景が感じ、それが被爆当時の惨状と対比されることで、平和の尊さが際立ちます。

繰り返される「くり返さないで」で、核兵器の悲劇を二度と繰り返さないという強い願いが、切実に表現されています。

蝉の鳴き声、短い命を懸命に生きる蝉の姿は、生命の尊さを象徴しています。
さださんらしい表現だと感じました。

さだまさし「広島の空」に込められた叔母の思い

大下アナ

 

歌詞の中に「武器だけを恨んでも仕方がないとむしろ悪魔を産み出す自分の心を恨むべきだから どうかくりかえさないで」とあります

さださん

それは全く叔母の言葉です。何度かカセットテープを回しながら
「これ回しってよかね?」と
「よかよ あんたの役に立つんだったら私は何でもしゃべるばい」
ずっと回していた中にその言葉があった。
武器はね最初は、たぶん石をなげていたんだろうけど、それからもっと飛ぶものを考えて銃を、考えて爆弾を、考えて原爆を、もっと恐ろしいこと考えるのが人間の頭だから。
悪魔は自分の心の中にいるんだという言い方をしていましたね。

さださんの叔母さんの被爆の記憶が、さださんへと世代を超えた記憶として語り継がれることの大切さが浮き彫りになります。

さだまさし、これからはどんな活動を?

さださん

今言ったことを精一杯活動してきた思いがあるのでこれをできる限り続けていけばいいんだろうと…少なくとも音楽とは思想や政治や宗教に揺らいではいけないんですよ、ですから政治とも対等に向かい合い、思想ともちゃんと向かい合い宗教とも対等に向かい合うにはね、自分なりの哲学が必要だということに気が付いてきますね、そうすると自分なりの哲学さえあればちゃんと距離を取りながら、私の主張していることが誰かを無駄に傷つけることがないようなやり方で伝えることは可能だと思っている

音楽という…僕の武器、これは武器ですから 僕は音楽以外武器を持ってはいけない人間なんです
たとえば、この国が戦場になっても僕は銃を撃ってはいけないです。
音楽家はそういう生き物ですからその覚悟を持って生きているかどうかが試されますよね。

さださんが語る「精一杯活動してきた思い」とは…1987年から2006年まで行った無料の野外コンサート。
毎年8月6日に長崎で行われている夏 長崎から さだまさし」
親の大人だけでなく留守番することもなく子どもも一緒に参加できるように無料で開催されました。

さださん

 「子どもが必ず来るからその子に毎年同じことを言えば必ず伝わるから20年やらせてくれ」
2006年までスタッフは我慢してくれた。
最初から来てくれている子には何か伝わっているだろうという確信をもって20年目にやめましたね。
やっぱりいつまでも頑張ることが出来るわけではないから一旦は引こうと…思いついたら、また歌えばいいじゃないという感覚ですよ



重大発表!さだまさし広島の空に向かって「夏 長崎から」2025年

「思いついたら、また歌えばいいじゃないという感覚ですよ」と言っていたさださん。
2025年は被爆80周年です。

さださん

80年て自分が元気だったら良いのですが90年目が元気で迎えられるかわからない歳になっていますから
80年目の来年はやっぱり長崎から何かを伝えようと思はます。
歌って手渡しするもんですから、散弾銃みたいに1対1万でパーンって撃つものではありませんから、何万人いてもひとりひとりに手渡すもの、手渡せるようなテーマを選んで「夏 長崎から」を僕は80年目をやろうと思います
だから日本中から❝広島の日❞に長崎に集まってもらって、広島の空に向かって何を歌うのかすごく大切ですよね
音楽ができるのはそのくらいなので、せいぜいそのくらのことで自分の思いを伝えようと思います。

大下容子 ワイド!スクランブルより

ファン必見な重大発表ですよね!
2025年にあの「夏 長崎から」が戻ってきます‼



まとめ

さださんは「夏 長崎から」コンサートでは…
「あなたの大切な人の笑顔をコンサートの間5分でいいから思い浮かべてくれ」
「そのあなたの大切な人の笑顔を守るために何ができるか考えましょう」と伝えていました。

「きょうは広島の日の夜なんだ」
「私は今長崎にいるんだ」と感じてくれるだけで、さださんは十分で❝音楽の力❞ってそういうものだと思ったそうです。

私は、今まで「夏 長崎から」は仕事や子育て、介護などで一度も参加したことありませんでした。
私がいつも一緒にコンサートに行っている「さだ友」さん二人は、毎年参加しておりましたので、来年は一緒に!と声かけて頂き、早速準備しております。

初めての「夏 長崎」、もう今からわくわくドキドキしております。

 

 

 

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